話を聞かない男、地図が読めない女/アラン・ピーズ,バーバラ・ピーズ

話を聞かない男、地図が読めない女』を読んだよ。男女は違うことが前提で。

以前に日本でも話題になり、200万部も売れたという本書。うん、確かにそんな記憶が…。で、今回はprime readingでの読書。このprime reading、たまに本書のような読み損ねた昔のベストセラーが出ているので、定期的にチェックする必要があるよね。

さて、本書。基本的にはタイトル通りなんだけど、これにはそれ以上の内容を包含する。ひとつは、「話を聞かない」、「地図が読めない」はネガティブ要因だけど、当然ながらポジティブな要因が存在し、それが説明されていないということ。だから、ネガティブには目をつぶり、ポジティブを意識してお互いが接していくべしということになるよね。

もう一つ。そもそも男女は違うということ。

女が地図を読むのが苦手で、男が新聞を読んでいるとき何も聞こえないのは、ウサギが空を飛べず、アヒルがよちよち歩くのと同じで、根本的に変えようがない。
とか、
男と女はもともとの作りがちがっている。この事実を認めようとせず、勝手な期待を相手に押しつけると、男女関係は暗礁にのりあげる。
ということ。いや、ついついこの事実を忘れがちになるんだけど…。

そして、個人対個人の男女間ではまだいいとして、社会的に考えるとどうなるのか。

男と女はちがう。どちらが良い悪いではなく、ただちがう。科学の世界では常識だが、差別嫌いの社会が全力でそれを否定にかかっている。男と女は等しく扱われるべきだという社会的、政治的な観点は、両者が同じであることを前提にしている。だがその前提には、まったく意味がない。
いやはや、これは社会構造が間違った前提で成立しているということではないか…。建前と事実の違いで社会が混乱し、収拾がつかないって、やっぱり構造的な問題なんだろうね。なんだか妙な気づきを得た読書でした…。

陰の季節/横山秀夫

陰の季節』を読んだよ。D県警って何県?

『クライマーズ・ハイ』から気になっていた横山秀夫。その次は「D県警シリーズ」の長編の『64(ロクヨン)』で、今回はその「D県警シリーズ」の短編集。その代表作といってもいいのかも。
そして、『64(ロクヨン)』と同じく、刑事が主役ではなく、警察で働く人たちが主人公なのがこのシリーズの特徴だよね。

本書の4編の主役の仕事は、人事担当、監察官、婦警、議会対策と様々。それぞれが警察内部の根深い課題に巻き込まれていく。そして、そのどれもが警察内部の不祥事と関わっている。だから、

『事故』──。警察職員の不祥事はすべてそう呼ばれる。
という表現が使われているよ。なんだか、そもそもを誤魔化しているような…。

そして、特徴的なのは最後の「議会対策」。こんな仕事があったんだ…という感じ。いや、警察といっても、まさにお役所なんだということが分かるよね。

警察といっても、結局は起こる事件は会社と変わらないんだよね。それが証拠にD県警では自組織のことを「カイシャ」って言っているしね。でも、会社と違うのは、自組織対策の機能が大きいってことかな。普通の会社以上にコンプライアンス重視と言ってしまえば、それまでなんだけど…。

点と線/松本清張

点と線』を読んだよ。最後が駆け足?

時刻表ミステリーと言えば、自分的には『準急ながら』なんだけど、一般的に知られているのはこの小説。確かに『点と線』から『準急ながら』を知ったということもあるので、やっぱりこちらが金字塔なんだよね。以前に本書を読んだのは30年以上の前のこと。おおよそのストーリーは分かっていたけど、最後の落ちが駆け足っぽい。前半がかなりゆったりペースだったこともあり、余計にそう感じるのかな…。

そして、本書の特徴は時刻表。旅の道具として必要不可欠なものだけど、今でもあの分厚い時刻表を趣味としている人はたくさんいるんだろうね。数字を読んで、鉄道の運行を想像する。現地の風景をイメージする。さらには推理するとところまで行くんだろうね。そして、その様子を描いた随筆が登場する。その随筆について、

随筆は詩情に溢れ、余人には無味乾燥に見えるあの横組の数字が、いかなる小説よりもおもしろいらしいのです。数字の行間からは、 蜿蜒と尽きぬ旅情の詩が湧き、随想が生まれるらしいのです。
と…。うん、面白いのは事実。そして、その面白さが分かったからこそ、松本清張自身も時刻表を読み解くことによって、この小説を書いたんだろうからね。

そして、もう一つの観点は官庁の汚職絡みという点。実務者レベルの課長補佐が巻き込まれてしまう。本書は昭和32年の作品だけど、平成の後半にも同様な大きな事件があったっけ。世の中は変わっているのに、人の営みは変わっていない。そう、令和になっても、コロナになっても、変わらない…。
あら、『点と線』から、こういう結論に至るとは思わなかったなぁ~。

間宮林蔵/吉村昭

間宮林蔵』を読んだよ。伊能忠敬の次世代。

間宮林蔵といえば間宮海峡と日本史か地理で習ったはず。でも、それだけ。間宮海峡がどこにあるのか、それが地理的、歴史的、社会的にどういう意味を持つのかということは、まったく知らずに。あっ、地理的には分かっているつもりだったけど。で、本書はその間宮林蔵の生涯を描く歴史小説。小説ではあるけれども、吉村昭氏が史料に基づいて、さらに解釈と想像を加えて書かれているよ。

形式的にはっきり分かれているわけではないけれども、構成的には二部構成という感じ。前半は樺太探査の話。後半はその後の隠密活動といったところか。林蔵の活動もガラリと変わるし、最後の方は考え方も変わってくる。

まずは樺太探査。厳しい自然環境の中で相当の苦労をして、樺太が島であることを確認している。そして、厳しいのは自然だけではなく、そこに住む人々との関係や、外交的な対応も。当時はロシアあり、清国ありで、樺太を巡り、三国間での領土の争いがあったわけだし。いや、今でもそれが続いているといってもよいのか…。
それでも、雇われ役人としての林蔵は地図作成の仕事に執念を燃やす。そして、その測量の意味は、

かれにとって測地は、地勢を図にかきとめるだけではなく、それらの地に生きる人間を理解することでもある。
と。この人間を理解することができたからこそ、間宮海峡の発見という偉大な業績を成し遂げることができたのではないだろうか。

そして、後半。アムール川を遡った実績により、諸外国の情勢について、意見を求められるようになる林蔵。さらに、鎖国政策に反する行為を調査するような役目も担っていく。その中で、様々な葛藤があり、林蔵の考え方も変わってくる。

林蔵は、若い頃、異国船を容赦なく打ちはらうべきだと信じていたが、いつの間にか進歩的な開明思想をいだくようになり、さらに川路聖謨、江川英竜らと親しくなるにつれて、それはゆるぎない信念になっていた。
頭の固いだけの人物ではなかったということに、ちょっとホッとするよね。
伊能忠敬の影に隠れているような印象の間宮林蔵だけど、その他にも日本の地図作りに貢献した人物がいたということが再確認できました~。

定本 バブリング創世記/筒井康隆

定本 バブリング創世記』を読んだよ。たまに読みたくなる。

コロナ禍の読書は積ん読Kindle本をせっせと片付けているんだけど、たまには志向を変えたくなって、今回はAmazon Prime Readingからの選択。おっこれは!という本がたまに出ているわけで、今回はその中からこれ。

筒井康隆の短編集。相変わらずというか、嬉しいほどにというか、まさに奇想天外。普段の感覚では味わえないような体験が読書でできるのが、また楽しいといったところか。

では、その奇想天外ぶりはいかに。
まずは、表題作の「バブリング創世記」。

ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドコドンドンとドンタカタを生む。
で始まり、あとは終わりまでずっとこの調子が続く。いつ終わるのかと思いつつ、このカタカナを丁寧に読んでしまう自分は何なのか…と疑問を持ちつつも読んでしまう。そして、この日本語の豊かさにも驚くという発見もあり。

同系の作品としては「発明後のパターン」。

「おお。万歳。なが年研究の 甲斐 あってついにロチャニをベラルゴしたぞ。ああ。これで世界中のボリスカロをスペサトレしることができる。やっぱりわしは大天才だ」
このカタカナ語が何を意味するかは一瞬は分からない。でも、読み進むうちに分かってくるとこの作品の面白さが味わえるという指向になっている。

最後に「裏小倉」。パロディ短歌集といったところか。例えば、

はれすぎて なつぼけらしく うろたえの こどもほすてす かまをとぐや
元歌もすぐにわかるし、通訳もまた楽し。
これらを次々と繰り出せるって、筒井康隆は日本語の魔術師だよね。

彼のオートバイ、彼女の島/片岡義男

彼のオートバイ、彼女の島』を読んだよ。昭和の香り。

自分が子供の頃、本屋に行くと文庫本のコーナーは片岡義男を本で溢れていたことがあったっけ。そう、角川映画の全盛時代。次から次へと話題作が作られて、本と映画が売れまくっていたんだと思う。そんな中の作品の一つが本書。小説が1977年、映画が1986年。古いといえば古いけど、逆に懐かしさもありといった感じか。

タイトル通り、彼と彼女の物語。もうひとりの主役はオートバイ。カワサキ650とヤマハ250。そして、舞台は長野の別所温泉から始まって、東京に移り、瀬戸内海の島まで。別所温泉は高原の夏。東京は秋から冬。そして、島では夏に戻ってくる。

では、どんなところが昭和的か。

ぼくは髪をリーゼントにしてもみあげを長くのばしているから、風圧で横に流された涙は、もみあげのなかに入りこんでいった。
とか、
「髪にポマードつけるの、やめなさいよ」
とか。リーゼント!?ポマード!?今の若い人には分からないのではないだろうか…。当時はカッコイイの代名詞だったような。

そして、彼女の描写。

皮のオートバイ・ジャンパーに皮ズボンのライダーが降り立ち、サイド・スタンドを出し、RDを休めさせる。フル・フェースのヘルメットをとったライダーは、両手で髪をときほぐし、空をあおぐ。そして、ぼくを見て、にっこり笑う。こんなうれしい瞬間は、ほかにない。
いかにも映像的。これを映画で原田貴和子が演じたらと…想像できるような気がするけど。

最後に島。瀬戸内海の小島が広いと感じた彼。

「まわりが海だから、広いんだ」
と、粋なセリフ。オートバイを思う存分走らせる道路がない島なんだけれどもね。

ということで、あとは映画を見てみたいかな。

零戦/堀越二郎

零戦』を読んだよ。日本人、そして技術者魂。

『零式戦闘機』(柳田邦男著)を読んだ際に、本書の存在を知る。そう、零戦を開発したご本人の著書。だから、内容的にはほとんど同じと言ってもいいくらい。その差があるとすれば、開発者ご当人の心情という点。特に、あの戦争に対する思いと零戦の評価に対するリアクション。特に、前者は柳田の著作とは違うかな。ただ、どこまで正直に語っているか、あるいはオブラートに包んだ表現もあるような気がするけど。

では、ご当人はどのように語っているか。
まずは、零戦とは何かについて。

当時の世界の技術の潮流に乗ることだけに終始せず、世界の中の日本の国情をよく考えて、独特の考え方、哲学のもとに設計された「日本人の血の通った飛行機」――それが零戦であった。
日本人による日本人のための飛行機であると。これは良い意味でも悪い意味でもあるんだけど。そして、その心は本書を読むと十分に伝わってくるよ。

そして、新しい戦闘機の要求仕様について。

私には、この要求書がつくられた会議の雰囲気が、目に見えるようだった。要求する側の人間ばかりが集まって、あれもこれもと盛りこんでしまったのだ。その人たちは、それぞれの部門のベテランで、日本をとりまく世界の情勢を考えてのことにちがいない。
いや、これは有りがちな話。そして、結局は現実的でない要求仕様が作られ、どれもが中途半端なプロダクトが作られていく。しかし、零戦はそうはならなかったということが、この設計者の凄いところだよね。

結局、日本は戦争に負けてしまう。

こうした技術政策のまずさが、はじめから終わりまで零戦に頼らざるをえない事態を招き、ひいては日本軍の決定的敗北に拍車をかけていった。
技術では勝ったとしても、作戦負けを認めざるを得ない。技術者としては辛いところなんだろうね。そう、それを考えると、戦後70年、日本は何も変わっていないような気がする…。