大学大崩壊/木村誠

大学大崩壊 リストラされる国立大、見捨てられる私立大 (朝日新書)』を読んだよ。大学の読み方。

『大学大倒産時代』の続編的な位置付けで、今回もデータを駆使して、現代大学事情を詳しく説明する本書。筆者の木村誠氏の著作本のうち、自分的には5冊目ということに驚く。データと筆者の過去の取材を元にした解説的な内容だから、印象に残っていないんだろうね。
そして、タイトルが「大学大崩壊」。倒産の次は崩壊ということで、だんだん悪くなってくるんだけど、その中でももがき苦しむ大学も多く紹介されているので、このタイトルには多少の違和感あり。副題の「リストラされる国立大、見捨てられる私立大」も、いや、目立つタイトルにしたいのは分かるが…という感じ。

では、現在の大学が抱える幾つかの課題について、本書の内容から紹介。
まずは、大学院の問題。

大学院重点化によるポスドクの就職難や法科大学院の淘汰の問題も、時の経済界の要望や意見をそのまま反映するのでなく、当事者となる若者たちの進路にプラスとなるように設計するという基本を忘れてしまった結果だ。
と筆者。そう、いつの間にか、法科大学院は消えていっているし、ポスドクの問題はかれこれ20年くらい前から言われている。経済界の要望に応えるのはいいけれども、社会の動きと大学の動きはシステム的に大きな時間差があるからね。それを前提にシステム構築していかないと失敗するよね。

もう一つはグローバル化

グローバル化の時代において人々に求められるのは、文化や価値観、利害の異なる他者とのあいだで合意を形成し、ルールを組み立てていく能力だ」と萱野学部長は言う。
津田塾大学総合政策学部の学部長のお話。単に英語能力とか他文化を知るとか、多様性について考えるというレベルではないよね。EUがその代表例なんだろうけど、イギリスの離脱はその難しさを語っているよね。

最後は総括的に情報公開の話。

情報公開が進めば、大学を見る社会の目はより厳しくなるだろう。しかし、大学関係者はそれを恐れてほしくない。「はじめに」で述べたように、外部の批判や意見を自己変革でエネルギーに変えていかなければならないからである。
ますます情報公開が進んでいくという話だけど、まさに「崩壊」しないためにも、自らの情報を分析して、自らの改革していかなくてはならないんだろうね。

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世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?/山口周

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 (光文社新書)』を読んだよ。結局は哲学の問題か…。

多分、どこかで紹介されていた本をメモったのだと思う。自分的には普段は手に取るような種類のものではないから。それでも、図書館で予約が多いということは、やっぱり本書がどこかでは注目されているのだと思う。とは言え、結果的に読んで正解だったと言える。

副題は「経営における「アート」と「サイエンス」」。で、結論的なことを不等号で表すと「アート」>「サイエンス」という構図なのが本書。幾つかのキーワードを並べてみると、本書の構造が見えてくる。「正解のコモディティ化」「差別化の消失」「方法論としての限界」「真・善・美による判断」など。

意思決定にはエビデンスが求められる時代。でも、それが逆に責任放棄になる場合もある。つまりは、サイエンスのせいにすることも可能になるわけ。だから、

それは、画期的なイノベーションが起こる過程では、しばしば「論理と理性」を超越するような意思決定、つまり「非論理的」ではなく「超論理的」とも言えるような意思決定が行われている、ということです。
となり、アート的な直感とか感性が必要ではないかとなってくる。

そして、物事の本質を見る力。

この「本質の共通性」をちゃんと把握するためには、経営という営みの本質が「選択と捨象」であることを、しっかりと理解することが必要です。
あぁ、これってデザイン思考に繋がっていくのか?あるいは、哲学とも言えるか。

最後に事例。

マツダが狙っているのは「顧客に好まれるデザイン」ではなく、「顧客を魅了するデザイン」だと言ってもいいでしょう。
悪く言えば「上から目線」なんだけど、顧客におもねるのではなく「感動を提供する」という立場に立てば、それは経営的には当然の帰結だよね。高い美意識が必要な理由がここにも。
あぁ、アートを鍛えないと。文学でもいいって書いてあったから、ひとまず良しとするか…。

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マイクロソフト伝説マネジャーの世界№1プレゼン術/澤円

マイクロソフト伝説マネジャーの 世界№1プレゼン術』を読んだよ。伝説の人だったのか…。

今年の夏、某所で本書の筆者である澤円氏の講演を拝聴。まさにプレゼンだったわけだけど、確かに印象的だったような。っていうか、まずはその風貌。プレゼンの第一歩は形から入るのがいいのかも。それだけ印象的で、この風貌からどんな話が聞けるんだろという期待感もあったり。
そんな筆者がプレゼンの極意を語ったのが本書。完結に分かりやすくて、まさにプレゼンの極意を本書に集めれば、こんな感じになるんだろうという教科書のような本。でも、教科書のような堅い話は一切なしなのもよい。

では、その極意とは。
結論のようなものを書いてしまうと、以下の3つがプレゼンのゴール。

○聴いた人がハッピーになる。
○聴いた人から行動(決断)を引き出す
○聴いた内容を他人に言いふらしたくなる
と筆者。これらを達成するために、どうしたらいいのか…というのが極意なんだけど、この3つのゴールを知るだけでも、自分なりに創意工夫はできるよね。

そして、幾つかのノウハウ。まずは、スライドの作り方。

本書で繰り返し述べてきた通り、プレゼンの目的は情報共有ではありません。
ということなので、むやみに情報を盛り込むものではないということ。そして、
スライドは自分が説明するためにあるのではなく、相手から反応を引き出すためにあると思ってください。
とも。これに反する事例として「文字情報が満載のプレゼン資料」が某省庁の資料。自分がよく見かける省庁の資料だけに、思いっきり納得。

最後に、プレゼンという場の考え方。質疑応答も大事な場なので、

質疑応答においても、プレゼンターは「質問者の価値」だけでなく「聴衆みんなの価値」を常に意識しなければならないのです。
ということ。確かに、誰かの質問がそのテーマを発展的に考えるきっかけになることもあるからね。
たかがプレゼン、されどプレゼン。これから、プレゼンが楽しくなりそうな予感です~。

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夜は短し歩けよ乙女/森見登美彦

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)』を読んだよ。京都の街を思い出しながら。

『四畳半神話大系』と同様に京都の街を舞台とした大学生の恋愛活劇。活劇と書いてしまったけど、単なる恋愛物語ではないということを言いたいだけで、本来の活劇の意味とは違うかも。いや、アドベンチャー的であるのは確かで、京都鴨川周辺を舞台にして、男女二人の大学生が縦横無尽に活躍するのは確か。登場人物も数多く、それぞれがそれぞれの役割に則って、活躍していくのはアドベンチャー的。あぁ、RPGをイメージしてしまったけど、それは言い過ぎか。

とは言え、やっぱりこの物語で重要な視点は、彼と彼女の関係。彼の方は、

彼女が後輩として入部してきて以来、すすんで彼女の後塵を拝し、その後ろ姿を見つめに見つめて数ヶ月、もはや私は彼女の後ろ姿に関する世界的権威といわれる男だ。
と自ら言わしめるほど、ひたすら直接的な行動には出ず、「外堀を埋め続ける」男。当然として、それは自覚していて、
大学に入学して以来、思えば、あらゆることに思案を重ねて、踏み出すべき一歩を遅延させることに汲々としていただけの、無益な歳月ではなかったか。彼女という城の外堀をめぐり、ただ疲弊していくだけの今も、その状況に変わりはない。多数の私が議論を始め、一切の決定的行動を阻止するのだ。
と、客観的な観察もできている。周りも人物もそれを分かっていて、茶々を入れる様子もこの物語の楽しみでもある。

最後に補足。彼が試行錯誤する場面。

「考えると不思議ではないか。この世に生をうける前、我々は塵であった。死してまた塵に返る。人であるよりも塵である方が遥かに長い。では死んでいるのが普通であって、生きているのはわずかな例外にすぎない。ならばなにゆえ、死が怖いのか」
そう、この考え方に激しく同意。しかも、人生の三分の一は寝ているのではないか。死も同じことだと考えるようになって早20年。

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ウォールデン 森の生活/ヘンリー・D. ソロー

ウォールデン 森の生活』を読んだよ。単なるアウトドアライフではなく。

かれこれ2年以上も前にKindle本として購入していた本書。上下巻で600頁を超える大書でもあるので、読み始めるのに二の足を踏んでいたけど、いよいよ読み始める。読書の秋だし。
タイトル的には当然にして、森でのアウトドアライフをどう楽しむかといったものを想像していたんだけど、そうはならず。自然観察は当然として、そこから地学や生物学の新たな知見を発見したり、政治、社会、経済といったソローの思いを書き留めた文章となっているよ。たった2年間であったけれども、いろいろな思いが沸き起こり、彼なりの哲学論も展開していく。

では、そのソローの哲学的見解を幾つかご紹介。まずは、やってみよう精神。

生きるとは、私だけの実験です。たしかにほかの誰もが生きてはいますが、それを参考にすることができない、私だけの実験です。
さらには、
私が森で暮らしてみようと心に決めたのは、人の生活を作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。生きるのに大切な事実だけに目を向け、死ぬ時に、じつは本当には生きてはいなかったと知ることのないように、生活が私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。
と科学的なものの見方をしながらも、思いっきり哲学的であったり。

もう一つ、

経験を通じて巧みに 摑み取った固有の考え、言葉、行為こそが尊いのです。私は、芯のない 漆喰の壁に釘を打ち込むような、愚かなやっつけ仕事はしたくありません。そんなことでは、社会はわずかな衝撃にも耐え切れず、崩壊します。
とモノゴトの本質を見抜くことの重要さを説いたり。

最後に。各章の最後に書かれている解説のようなものが秀逸。全般的に難しい文書が多い本書だけれども、この解説で全体が分かる。例えば、

ソローも森の家に住んで、以前のソローとはまるで変わったはず、と推測します。その大きな変化を書いたのが本書です。
とか。あぁ、極論すれば、それぞれの解説を読んでしまえば、本書の全貌が一気に分かってしまうとも言えるかな。

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「名探偵」に名前はいらない/関川夏央

「名探偵」に名前はいらない (講談社文庫)』を読んだよ。名探偵なのにデブ?

関川夏央の書き物は小説なのかエッセイなのか、微妙な感じのものが多いような気がするんだけど、本書は冒頭からはっきり小説だと分かるもの。そして、探偵が主人公なのは分かっていたけど、いきなりハードボイルド風。関川夏央の印象だと、どちらかと言うとコロンボとか金田一耕助をイメージしていたんだけど、そうではなく。あっ、中途半端にハードボイルド風かも。

その探偵さんが扱う事件が4件。ハードボイルドだから、酒、女、暴力という三点セットは一応揃っているんだけど、やっぱり主役がそれっぽくない。なんせ、

「ええ探偵です。おまけに運の悪いことに名探偵です」
と言ったりするわけだから。ハードボイルド風の名探偵が「名探偵」を主張するわけがなく、それを自ら口にするということは、ギャグなのか自虐的なのか…。

さらに筆者の趣味が出ているセリフをこの名探偵が吐く。

おれは予算の引締めにも興味があったが、鉄道の旅にも興味があった。空気に浮くものよりも、地面を這うものの方が信頼に足ると考える連中が世界にはかなり生残っており、おれもそのなかのひとりだ。旅とは、眼の高さにある風景を眺めながら水平に移動するものである、と信じながら三十五年を過ごすと、小学校で習った歯ブラシのつかい方とおなじく、たやすくはかえにくい。
そう、テツなのだ。趣味的には筆者の分身か?と思えなくもない。そっか、ハードボイルドは筆者の願望だったのかも。それでも、自身を鑑みて、自分が探偵になった姿を想像してみたのかもしれないな。

さらに、自分的に共感したセリフも。

スペインが満員の後楽園球場ならば、ポルトガルは、たとえば秋も深まった川崎球場だ。ロッテと南海がただ日程を消化するためにだけ戦っている場所だ。そしてリスボンはその外野席だ。疲れた恋人たちがわずかの距離をおいてすわるベンチだ。
いや、これが分かるのは同年代。そして、プロ野球ニュースを見ていたクチかもしれないわ。あぁ、自分もハードボイルド風名探偵に憧れるオヤジの仲間かもしれないなぁ~。

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放送禁止歌/森達也

放送禁止歌 (知恵の森文庫)』を読んだよ。皆が思考を放棄。

森達也のドキュメンタリーは面白い。普段に耳にしている言葉をあまり理解していなかったりすることがよくあるけれども、今回のテーマの「放送禁止歌」もその一つかもしれない。そもそも、「放送禁止歌」って何なんだろう。誰がどういう基準・根拠で決めたんだろう…と考えるとわけわからん。
筆者も同様な疑問を感じたのだろうけど、それをドキュメンタリー番組にするという危険?な企画を起し、各方面と折衝していく中で、「放送禁止歌」とは何かに迫っていく。最終的にはその番組は放送されることになるんだけど。

前半は「放送禁止歌」になった楽曲やその歌手を追っていく。どうして、「放送禁止歌」になってしまったのか、本人はどう思っていたのか。そのうちの一人がなぎら健壱。『悲惨な戦い』という楽曲が放送禁止歌に指定されたことについてのインタビューでは、

「…結局、言葉に罪はないんだよね。使う人の意識の問題なんですよ。」
という。そう、そんなに問題になるような歌詞ではないんだけど…。想像力の問題というか、けしからんと言う人は逆に想像しすぎなんじゃないかと…。

そして、この「放送禁止歌」の根源は何か?その答えは本書に譲るとして、その背景は自分自身にあることを主張する筆者。

「自覚性を持つこと。主語を自分にすること」
 文字にするとたったこれだけの作業だ。しかしこの作業が、メディアに、そして日本人全般に、そして実は誰よりも僕自身に、今、大きく欠落していることは間違いない。
という。無自覚という病。それは救われない。自分で考える事の放棄だよね。「放送禁止歌」というテーマがそこに行き着くとは…。いや、これはすべての人間の活動に通じることだよね。自覚しなくてはいけないな…。

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