間宮林蔵/吉村昭

間宮林蔵』を読んだよ。伊能忠敬の次世代。

間宮林蔵といえば間宮海峡と日本史か地理で習ったはず。でも、それだけ。間宮海峡がどこにあるのか、それが地理的、歴史的、社会的にどういう意味を持つのかということは、まったく知らずに。あっ、地理的には分かっているつもりだったけど。で、本書はその間宮林蔵の生涯を描く歴史小説。小説ではあるけれども、吉村昭氏が史料に基づいて、さらに解釈と想像を加えて書かれているよ。

形式的にはっきり分かれているわけではないけれども、構成的には二部構成という感じ。前半は樺太探査の話。後半はその後の隠密活動といったところか。林蔵の活動もガラリと変わるし、最後の方は考え方も変わってくる。

まずは樺太探査。厳しい自然環境の中で相当の苦労をして、樺太が島であることを確認している。そして、厳しいのは自然だけではなく、そこに住む人々との関係や、外交的な対応も。当時はロシアあり、清国ありで、樺太を巡り、三国間での領土の争いがあったわけだし。いや、今でもそれが続いているといってもよいのか…。
それでも、雇われ役人としての林蔵は地図作成の仕事に執念を燃やす。そして、その測量の意味は、

かれにとって測地は、地勢を図にかきとめるだけではなく、それらの地に生きる人間を理解することでもある。
と。この人間を理解することができたからこそ、間宮海峡の発見という偉大な業績を成し遂げることができたのではないだろうか。

そして、後半。アムール川を遡った実績により、諸外国の情勢について、意見を求められるようになる林蔵。さらに、鎖国政策に反する行為を調査するような役目も担っていく。その中で、様々な葛藤があり、林蔵の考え方も変わってくる。

林蔵は、若い頃、異国船を容赦なく打ちはらうべきだと信じていたが、いつの間にか進歩的な開明思想をいだくようになり、さらに川路聖謨、江川英竜らと親しくなるにつれて、それはゆるぎない信念になっていた。
頭の固いだけの人物ではなかったということに、ちょっとホッとするよね。
伊能忠敬の影に隠れているような印象の間宮林蔵だけど、その他にも日本の地図作りに貢献した人物がいたということが再確認できました~。

定本 バブリング創世記/筒井康隆

定本 バブリング創世記』を読んだよ。たまに読みたくなる。

コロナ禍の読書は積ん読Kindle本をせっせと片付けているんだけど、たまには志向を変えたくなって、今回はAmazon Prime Readingからの選択。おっこれは!という本がたまに出ているわけで、今回はその中からこれ。

筒井康隆の短編集。相変わらずというか、嬉しいほどにというか、まさに奇想天外。普段の感覚では味わえないような体験が読書でできるのが、また楽しいといったところか。

では、その奇想天外ぶりはいかに。
まずは、表題作の「バブリング創世記」。

ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドコドンドンとドンタカタを生む。
で始まり、あとは終わりまでずっとこの調子が続く。いつ終わるのかと思いつつ、このカタカナを丁寧に読んでしまう自分は何なのか…と疑問を持ちつつも読んでしまう。そして、この日本語の豊かさにも驚くという発見もあり。

同系の作品としては「発明後のパターン」。

「おお。万歳。なが年研究の 甲斐 あってついにロチャニをベラルゴしたぞ。ああ。これで世界中のボリスカロをスペサトレしることができる。やっぱりわしは大天才だ」
このカタカナ語が何を意味するかは一瞬は分からない。でも、読み進むうちに分かってくるとこの作品の面白さが味わえるという指向になっている。

最後に「裏小倉」。パロディ短歌集といったところか。例えば、

はれすぎて なつぼけらしく うろたえの こどもほすてす かまをとぐや
元歌もすぐにわかるし、通訳もまた楽し。
これらを次々と繰り出せるって、筒井康隆は日本語の魔術師だよね。

彼のオートバイ、彼女の島/片岡義男

彼のオートバイ、彼女の島』を読んだよ。昭和の香り。

自分が子供の頃、本屋に行くと文庫本のコーナーは片岡義男を本で溢れていたことがあったっけ。そう、角川映画の全盛時代。次から次へと話題作が作られて、本と映画が売れまくっていたんだと思う。そんな中の作品の一つが本書。小説が1977年、映画が1986年。古いといえば古いけど、逆に懐かしさもありといった感じか。

タイトル通り、彼と彼女の物語。もうひとりの主役はオートバイ。カワサキ650とヤマハ250。そして、舞台は長野の別所温泉から始まって、東京に移り、瀬戸内海の島まで。別所温泉は高原の夏。東京は秋から冬。そして、島では夏に戻ってくる。

では、どんなところが昭和的か。

ぼくは髪をリーゼントにしてもみあげを長くのばしているから、風圧で横に流された涙は、もみあげのなかに入りこんでいった。
とか、
「髪にポマードつけるの、やめなさいよ」
とか。リーゼント!?ポマード!?今の若い人には分からないのではないだろうか…。当時はカッコイイの代名詞だったような。

そして、彼女の描写。

皮のオートバイ・ジャンパーに皮ズボンのライダーが降り立ち、サイド・スタンドを出し、RDを休めさせる。フル・フェースのヘルメットをとったライダーは、両手で髪をときほぐし、空をあおぐ。そして、ぼくを見て、にっこり笑う。こんなうれしい瞬間は、ほかにない。
いかにも映像的。これを映画で原田貴和子が演じたらと…想像できるような気がするけど。

最後に島。瀬戸内海の小島が広いと感じた彼。

「まわりが海だから、広いんだ」
と、粋なセリフ。オートバイを思う存分走らせる道路がない島なんだけれどもね。

ということで、あとは映画を見てみたいかな。

零戦/堀越二郎

零戦』を読んだよ。日本人、そして技術者魂。

『零式戦闘機』(柳田邦男著)を読んだ際に、本書の存在を知る。そう、零戦を開発したご本人の著書。だから、内容的にはほとんど同じと言ってもいいくらい。その差があるとすれば、開発者ご当人の心情という点。特に、あの戦争に対する思いと零戦の評価に対するリアクション。特に、前者は柳田の著作とは違うかな。ただ、どこまで正直に語っているか、あるいはオブラートに包んだ表現もあるような気がするけど。

では、ご当人はどのように語っているか。
まずは、零戦とは何かについて。

当時の世界の技術の潮流に乗ることだけに終始せず、世界の中の日本の国情をよく考えて、独特の考え方、哲学のもとに設計された「日本人の血の通った飛行機」――それが零戦であった。
日本人による日本人のための飛行機であると。これは良い意味でも悪い意味でもあるんだけど。そして、その心は本書を読むと十分に伝わってくるよ。

そして、新しい戦闘機の要求仕様について。

私には、この要求書がつくられた会議の雰囲気が、目に見えるようだった。要求する側の人間ばかりが集まって、あれもこれもと盛りこんでしまったのだ。その人たちは、それぞれの部門のベテランで、日本をとりまく世界の情勢を考えてのことにちがいない。
いや、これは有りがちな話。そして、結局は現実的でない要求仕様が作られ、どれもが中途半端なプロダクトが作られていく。しかし、零戦はそうはならなかったということが、この設計者の凄いところだよね。

結局、日本は戦争に負けてしまう。

こうした技術政策のまずさが、はじめから終わりまで零戦に頼らざるをえない事態を招き、ひいては日本軍の決定的敗北に拍車をかけていった。
技術では勝ったとしても、作戦負けを認めざるを得ない。技術者としては辛いところなんだろうね。そう、それを考えると、戦後70年、日本は何も変わっていないような気がする…。

インド旅行記1 北インド編/中谷美紀

インド旅行記1 北インド編』を読んだよ。

女優の中谷美紀のインドの旅エッセイ。シリーズものになっていて、本書はその1北インド編。自分はインドの地理が頭に中にないのでイメージでしか言えないけど、ニューデリーの周辺からチベットの麓までの辺りだろうか。

それにしても、女一人旅でなぜインド?という気がするけど、そもそもは「本場でヨガ体験」ということ。映画の撮影が終わり、疲弊していたという背景もあったみたい。女優とは精魂共に尽き果てる職業なのか…。

そして、実際のインドで強力な異文化体験。食べ物、風習、生活、文化といろいろあるけど、結局は

人間が定めたカーストという制度によって、人間の価値まで定められてはたまらないと憤りを覚えるものの、よそから来た人間にはヒンドゥー教の 輪廻思想と密接に繫がったその根深い仕組みについて触れるだけの知識も術もないので、「それがこの国のありのままの姿なのだ」と 捉えるよりほかないのだろう。
と受け入れることがよいのかと…。頭で考えるのではなく…ということなんだろうと思う。

さらには、人種の坩堝と宗教対立に、食べ物の違いもあるわけで、どう考えてもトラブル無しでは生きられないのではないかと思うけど、

もちろん私などの心配が及ぶ余地はなく、彼らには彼らの暮らし方があるのだろうから、放っておけばいいのだけれども。
と、一種の開き直りも必要になってくる。

ヨガの話も多いけど、やっぱり食べ物の話も多い。

豆の粉にキャベツやニンジン、タマネギなどの野菜をスパイスとともに混ぜ、焼き串に棒状に貼りつけて竃で焼いた熱々のそれは、外側がサクッとして、歯ざわりがよく、くせになるおいしさだった。
など、詳しい解説もあるけど、登場するのはカレーが最多かな。

最後にインドについて、一言。

しかし、ここはインドだ。完璧を求めてはいけないのよね。
うん、これしか無さそう。でも、シリーズの次はあるかな…。微妙だな。

有頂天家族/森見登美彦

有頂天家族』を読んだよ。京都の街が想像しながら。

タイトルからはそもそも主人公が狸だとは思えないけど、本当に狸。でも、登場するのは狸だけではなく、天狗だったり、蛙だったり、一応、人間も。
ホントは全員が狸なんじゃないかと思う。
京都の街にはこんな感じで狸が生活しているのかと想像するだけでも楽しめるかもしれないね。

物語は下鴨家という狸の一家を中心に展開する。両親のもとに4人の男兄弟。それぞれに特徴があり、それに相応しい活躍をする。その下鴨家に哲学は「阿呆であること」。

「そりゃ、おまえ、阿呆の血のしからしむるところさ」と次兄は笑った。
とか、
我らの父も、その父も、そのまた父も、下鴨家の狸たちは代々その身のうちに流れる阿呆の血のしからしむるところによって、ときに人間を化かし、ときに天狗を陥れ、ときに煮え立つ鉄鍋に転げ落ちてきた。これは恥じるべきことではなく、誇るべきことである。
阿呆を誇るという阿呆っぷりがいいよね。開き直りというか、自虐的というか。でも、その思いっ切りぶりが、人間にはできないこと。狸であるからこそか…。

いや、この物語に登場する者たちに、阿呆でない者はいないかも。天狗にしても、弁天にしても、教授にしても。人間(生き物?)というものは、基本的に阿呆なのかもしれないね。だからこそ、生きることが面白くなるのかもしれない。
だから、

狸は如何に生くべきか、と問われれば、つねに私は答える――面白く生きるほかに、何もすべきことはない。
ということになりそうだね。
さて、続編が出ているようだけど、次があるかは微妙だな…。

戦地の図書館/モリー・グプティル・マニング

戦地の図書館』を読んだよ。読書の力。

最近、kindle積読本を一気に読み進めているのもコロナのせい。いいんだか悪いんだが分からんが、読書が続けられるのは嬉しい。という訳でもないけど、今回は本の本。本書を購入したきっかけはすでに記憶の彼方だが、もしかしたら、『夢見る帝国図書館』の流れだったかもしれない。

副題は「海を越えた一億四千万冊」。時は第二次世界大戦。戦争に出ていった兵士の為に、多くの本を供給し、それによってどのような成果があったのかというアメリカのドキュメンタリー。ドイツが行った焚書とは全く逆の施策なわけで、その対比として語られていることにも注目したいね。

この「海を越えた一億四千万冊」とは、基本的には「兵隊文庫」というペーパーバック。ハードカバーは持ち歩きにくく、手軽に持ち歩ける形にしたことで最前線の兵士たちも本を読めるようになったのだとか。
そして、単に本が読めるということだけではなく、

現実から逃れ、不安を和らげ、退屈を 紛らし、笑い、刺激を受け、希望を持つためにそれを開いて熱心に読み、違う世界へと 誘ってくれる言葉に 浸った。
という精神的安定剤としての効用が大きかったんだよね。

そして、その一時的な効果だけではなく、

兵士は、兵隊文庫から深く影響を受け、その影響はいつまでも残り続けた。故郷に戻った時、多くの兵士が、出征した頃とは変わっていた。読書を愛するようになっていたのだ。
と、教養を含む人生を変えるような効果も。

さらには、それが国力に繋がっていく。

本は武器であるという言葉は、決しておおげさな言葉ではないと思う。ヒトラーは無類の読書家だったそうだ。おそらく彼は、本の力をよく知っていたのだろう。だからこそ、一億冊もの本を燃やしたのではないか。そして、アメリカの図書館員や戦時図書審議会構成員もまた、本の力を知っていた。だからこそ、一億四千万冊もの本を戦場へ送ったのである。
本の力、読書の力が戦争の結果にも繋がていくんだよね。読書の力は大きいなぁ〜。本を読んでいて良かったなぁ~。