大人のいない国/鷲田清一,内田樹

大人のいない国 (文春文庫)』を読んだよ。大人になったつもりでいたけど…。

本書は、鷲田清一氏と内田樹氏の対談を2本含む、二人の「大人論」と言ったところ。ここでいう「大人」とは、社会的に成熟しているという意味での「大人」。肉体的には立派な「大人」なのに、言っていることとかやっていることがすっかり「子供」っていう人は多いからね。でも、それはあくまでも個人的な問題。二人の議論は社会がそうしてしまっているという点で共通しているよ。あっ、勿論社会のせいではなく、その観点を分かっている人が「大人」なんだろうけどね。

おっと、「大人」について抽象的な表現になり過ぎた。具体的に、二人はどう言っているのか。
まずは、内田先生。

子どもはシステムの不調には「張本人」がいると思いたがる。すべてをコントロールしている責任者がいるはずだし、いてほしい。彼らの無垢を保障してくれるのは何よりもすべての黒幕にいる「責任者」の存在なんですから。
と説明し、自分に関わるすべての不都合はその「責任者」のせいにすると。うん、まったく「大人」の態度ではないよね。それに対し、鷲田先生は、
システムの外に出られるはずはないのに、その人は出ているという「幻想の場所」にいる。
と子供を説明しているよ。夢みる子供なわけだよね。

さらに、内田先生の考える「教養」について。

知的探求を行っている自分自身の知のありようについて、上から鳥瞰できることが「教養がある」ということではないかと僕は思うんです。
と。鷲田先生も言っているけれども、自分がわかっていないことがわかるということが、大人の態度なわけだよね。大人は謙虚でなければならないよね。

では、「大人」を育成する手段はあるのか?内田先生、曰く、

工学的な比喩を使って言えば、あまりに好調に機能している「全国民の規格化・標準化」工程に意図的にいささかの「ノイズ」を発生させ、システムに局所的な「無秩序」を生み出すこと。
だと。それで、自分が「大人」でなくてはいけないという自覚が出来ればいいけど、「大人」でない大人たちは、システムの不具合として、システムの方を直してしまうんだろうなぁ〜。これって、内田先生の意図とは違うよなぁ〜。
大人のいない国 (文春文庫)
大人のいない国 (文春文庫)鷲田 清一 内田 樹

文藝春秋 2013-08-06
売り上げランキング : 3169


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

応援クリックはこちら→にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ