下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉
『下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉』を読んだよ。学校とは何か?を改めて考えた。
内田樹は今回も格差社会の話が中心。どこかのセミナーでの講演と質疑応答をまとめたもの。まえがきによると5時間にもわたったとか。それだけ、内田樹氏が今話がしたい内容なのかも。
第一章は「学びからの逃走」。学力の低下の問題。「矛盾」という文字を書けない学生。それは本を読まなくなったからという単純な理由ではない。おそらくその文字を読み飛ばしているのではと筆者。分からないことがあっても気にしないのだと。これを説明する唯一のロジックとして、
それは、彼らは「自分の知らないこと」は「存在しない」ことにしているということです。と言っている。意味の分からないものが出現したら、即座にスキップする。人生ってそんな簡単なものじゃないんだけど。それじゃ、危機管理ができないだろうなぁ〜。
「それが何の役に立つのか?」と聞くという小学生の話から、彼らは教育を提供する側との等価交換を成立させようとしている仮説を導き出す。小学校に入る以前に消費主体としての自分が確立されてしまっているというのがその根拠。
「私は自分がその価値を知っている商品だけを適正な対価を支払って買い入れる」と。これは「学びは市場原理によっては基礎づけることはできない。」という基本原則に抗うことになるわけ。もうこれで終わり…。
消費主体としての子供たちはそう高らかに宣言しつつ学校に入ってくるわけです。そんな子供たちが静かに授業を聞くはずがありません。
この流れで、教育の崩壊の根本について、
かりにひろく社会的に有用であると認知されているものであったとしても、「オレ的に見て」有用性が確証されなければ、あっさり棄却される。そのような手荒な価値づけがあらゆる場面で行なわれています。と語る。そう、外的に存在する基準よりも内的な動機が尊重されてしまうのだ。
第二章はリスク社会について。リスクヘッジとは何かと言った時に、単に回避するということではなく、リスクを最小化するという観点で考えたほうがいいみたい。だから、最適なソリューションが正解ではない場合もあると。「正しいソリューションを採択することに固執することは正しくない」という逆説的事況が出現することもあるわけで、リスクヘッジとはそういうことも考慮する。
ここに自己決定・自己責任という最近の風潮が絡んでくる。自己決定・自己責任とはリスクヘッジできる人間は存在しないということ。生きるのが難しい時代になっちまった。
そして、第三章で労働からの逃走。学びからの逃走で、教育を等価交換と捉える人間が社会に出てくるとどうなるか。労働も等価交換と考えるわけ。
労働から逃走する若者たちの基本にあるのは消費主体としてのアイデンティティの揺るぎなさです。彼らは消費行動の原理を労働に当てはめて、賃金が少ない、十分な社会的威信が得られないことに「これはおかしいだろう」と言っているのです。もう論点が違っている。労働は消費とは違うのに…。
最後は、教育へ市場原理が入り込むことの弊害は学ぶことの意味を見失ってしまっているという。今の教育には確かにアウトカムとして数値的な評価が入り込んでいるからね。
そして、
学校で身につけるもののうちもっとも重要な「学ぶ能力」は、「能力を向上させる能力」というメタ能力です。という見解。うん、この能力は無時間モデル的に成果主義的として評価はできないよね。あ〜、最近教育のアウトカムに携わっているアッシとしては自己矛盾。
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