武士の娘/杉本鉞子
『武士の娘 (ちくま文庫)』を読んだよ。女性版『武士道』。
きっかけは覚えていないけど、何となく気になっていて、密かに読みたい本リストに入っていた本書。原書は英文で書かれており、日本語に翻訳されているわけで、そういう意味でも新渡戸稲造の『武士道』を同じ。ただ、ちょっと違うのは、こちらは日米文化比較の意味合いが強いということ。
時は明治維新。場所は新潟の旧長岡藩。明治6年に旧長岡藩家老の家に六女として生まれたのが筆者の杉本鉞子。武士の娘として、厳しい躾を受けて育った筆者は結婚の為に、アメリカに渡ることになる。その準備で、まずは東京の学校に進学。そこで、最初のカルチャーショック。さらにアメリカに渡り、二度目のカルチャーショックということに。
例えば、
祖国日本と第二の故郷アメリカでは、ものごとの標準が大変かけはなれておりますので、二つの国に深い愛情を感じている私は、時々雲の上にいて、二つの世界を見下して考えているような、妙な感覚を持つことがございました。という認識。いきなりメタ認知っぽいけど、確かにそうだろうね。
そして、二人の娘のこと。日本人ながらもアメリカ生まれ故に、日本の風習には馴染めない。それがいいことなのか、ダメなのか、微妙に揺れ動く筆者。
でも、日本とアメリカは違うのか?というところで、筆者曰く、
東洋も西洋もまあ、よく似ていますこと! 数々の神や仏はあるとしても、結局は唯、全知全能にいまし、愛と理解に富み給う真の「力」があります故に、いっさいの人類が互いに理解しあう時が来るに違いないのだと、考えたりいたしました。と。意外に重いテーマでありながら、さらって述べる筆者。
そう、日本人もアメリカ人も同じ。その表現の仕方が違うだけ。でも、理解しあう日はいつになったら来るんだろうか…。
武士の娘 (ちくま文庫) | |
杉本 鉞子 大岩 美代 筑摩書房 1994-01 売り上げランキング : 14588 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
メソポタミア文明入門/中田一郎
『メソポタミア文明入門 (岩波ジュニア新書)』を読んだよ。今も昔も。
世界史は基本的に興味の対象外なんだけど、ひょんなことから本書。多分、どこかに紹介されていたんだと思うけど、どこだったか記憶に無し。読みたい本リストにいつの間にか載っていたから。
「入門」だからと手にとってはみたけれども、なかなかに本格的。メソポタミア文明の地理・気候から始まって、政治、文化、宗教、人々の生活など、かなり詳しく説明しているよ。
メソポタミア文明は今から3000年から4000年前の時代。場所はチグリス川とユーフラテス川の周辺。そう、「チグリス・ユーフラテス」って言われれば、中学の時の歴史を思い出す。
そんな時代と場所の人々の生活はどうだったのか?それは基本的な部分で現代とあまり変わらず。だから、「ハンムラビ法典」に書かれていることは、今の法律と変わりがないわけ。例えば、弱者救済、医療過誤、製造物責任とかまで規定されている。製造物責任なんて、日本ではごく最近のことなのに…。人間の問題って、今も昔も同じなんだよね。
当たり前だけど、カタカナ多し。それが地名なのか人名なのかが頭の中で整理できないと読みにくい。ちょっと慣れるまでは大変かも。いや、世界史ってそういうものか。スパっと分かる方法ってあるのかなぁ〜。
メソポタミア文明入門 (岩波ジュニア新書) | |
中田 一郎 岩波書店 2007-03-20 売り上げランキング : 211587 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
エベレストを越えて/植村直己
『エベレストを越えて (文春文庫 (178‐5))』を読んだよ。チャンスは何度もない。
ご存じ植村直己氏によるエベレスト挑戦の記録。とは言っても、植村氏の思いの多くが綴られているので、単なる記録ではなく、植村氏の人生の記憶の一部とも言えるかも。
そして、知らなかったのは、植村氏が何度もエベレストに行っていること。山頂への登頂は一度きりだが、それ以前の二度の偵察隊。その後の国際隊への参加と、日本冬期隊での挑戦など。これだけでも、一人の人間としてはかなりの経験だよね。
では、エベレストの魅力について、植村氏はどう語っているか。
例えば、
越冬中にトレーニングしながら峠の上から見たエベレストの威容は、私がいかに無力な存在であるかを教えてくれ、虚心に帰らせてくれた。と。なんとなく、日本人が富士山を見て思う気持ちに近いような気がするけど、いやそれ以上の感情なんだろうね、多分。
もうひとつ。登頂に成功したのは一回きりであったことに関連して、
だが私にとってのエベレストは成功も失敗も越えている。そこへ向けて新しいものを見つける、新しいことをつけ加える、そのための努力がすべてであり、そういう対象であることが、私にとってエベレストの魅力のすべてなのである。と。ちょっと抽象的な表現だけど、富士山ではなく、K2でなく、カンチェンジュンガでもないということを言いたいんだよね。
そうか、植村氏のように「自分の山」というものを見つけたいなぁ〜。
エベレストを越えて (文春文庫 (178‐5)) | |
植村 直己 文藝春秋 1984-12-25 売り上げランキング : 69492 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
森の聖者/加藤則芳
『森の聖者 自然保護の父ジョン・ミューア (ヤマケイ文庫)』を読んだよ。自然保護は戦いだ。
ヤマケイ文庫が出た頃から気になっていた本書。小学館文庫からも出ていたけど、ちょうど電子書籍版も出ていたので、ひとまず積読。(電子書籍の場合、この表現が適切かどうか…。)ちょうど、紙の本が切れたタイミングで読み始める。
筆者は『ぼくのペンションは森のなか』などを書かれた加藤則芳氏。残念ながら、お亡くなりなったよう。『ぼくのペンションは森のなか』はちょっとした憧れだったんだけどね。
で、本書は、イギリスで生まれ、幼い頃に家族でアメリカに渡り、その後自然保護活動にその人生を賭けたジョン・ミューアの記録。
では、どんな人生だったのか・
若い頃はとにかく放浪生活。地質学や植物学を学び、アメリカの山を歩き回り、フィールドワークする。だから、自分の住所は地球という惑星であるという意識。例えば、
日誌の背表紙には「ジョン・ミューア、惑星=地球、宇宙」と書き込まれていた。という感じ。ただ、ある意味、家族との訣別のための決心だったのかもしれないね。
ただ、放浪するだけでのミューアではなく、社会的な活動者としてのミューアがその後に登場するよ。つまりは、
しかし、社会から隔絶されたところで、自らの喜びのために、静かで平穏な生活を送ろうとした過去のナチュラリスト・ミューアではなく、今度は社会に深くコミットしていこうとする、新しい顔をもったナチュラリスト・ミューアが登場するのである。ということ。こうして社会的な活動を広げていき、認知されていくミューア。本人の意思とは微妙な齟齬があるんだけどね。
最後にミューアの基本的な考え方。それは、
実際に行って、見て、感動することが、その自然を守ることにつながる、というミューアの信念が、アウティング活動の基にあった。自然破壊を嘆き、怒り、立ち上がり、救うためには、まず行って、見て、感動した人の心のなかからはじまる。ここから、旅行が自然保護の鍵だ、というミューアの発想が生まれた。ということ。本文中には同様な記述が何度も出てくるよ。まさに「百聞は一見に如かず」。それはミューアの自然保護でも通用する言葉なんだよね。
あ〜、山の季節だ。自然観察に出掛けたいなぁ〜。
森の聖者 自然保護の父ジョン・ミューア (ヤマケイ文庫) | |
加藤 則芳 山と溪谷社 2012-05-25 売り上げランキング : 43296 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
西洋中世の男と女/阿部謹也
『西洋中世の男と女―聖性の呪縛の下で (ちくま学芸文庫)』を読んだよ。時代が変われば男女も変わる。
過去に何冊も読んでいる阿部先生。今回は積読状態だった1冊からチョイス。先生の研究テーマだった「西洋中世」だけど、本書はその中から男女の関係に特化したもの。以前の著作にも夫婦のあり方について、書かれていたものもあったように思うけど、あれは「世間論」としての取り上げ方だったかな。
副題は「聖性の呪縛の下で」。男女の関係が聖なるものなのか否か。それが、時代の変化で揺れ動く。
まずはナサニエル・ホーソーンという小説家の『緋文字』を紹介して、
中世全体の流れのなかで聖なるものが解体されていったのです。その果てに、十九世紀の半ばにホーソーンは、不義密通をした男女に、私たちのしたことは神聖なものであったと言わせているのです。ヨーロッパ古代から中世にかけて千数百年の歴史を、彼女のことばに収斂する形でとらえてみたいというのが私の話の主題です。と言う阿部先生。これは『緋文字』を読んでみないと。背景を知っていてよかった。
では中世以前の古代ローマではどうだったのか?ある修辞家の自叙伝には、自分の妻のことを「私の息子の母」と表現している。これって、夫婦という関係の希薄さが見えるわけで、家父長制的な考え方に貫かれていたということ。これが後には個人対個人の関係に変化していくわけ。
何がその変化をもたらす契機となったのか。それがイエス・キリストの教え。
結婚とは男女の結合に基づく共同体であって、死のみがそれを分かつことができるという教えは、この時代としては革命的なものでした。と。この考えが男女の関係を私的なものに変えていくわけ。その収斂が、エロイーズとアベラールの物語になるんだけど、この話が複雑で理解し難い。日本人的な感覚との差異があるのか。
やっぱり、阿部先生の淡々とした語り口がいいよね。歴史を知ることで今を考える。これが歴史家の視点ということを改めて思いました〜。
西洋中世の男と女―聖性の呪縛の下で (ちくま学芸文庫) | |
阿部 謹也 筑摩書房 2007-10 売り上げランキング : 206163 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
バベッジのコンピュータ/新戸雅章
『バベッジのコンピュータ (ちくまプリマーブックス)』を読んだよ。機械式って凄い。
機械式計算機を設計したチャールズ・バベッジの物語。ちくまプリマーブックスだから、かれこれ20年ほど前の本。図書館で借りた本は、それほどの汚れもなく、まだまだ新刊ぽい感じを残していたんだけど、これってそれほど読まれていないってこと?伝記の分類だったなのかなぁ〜。
そう、本書はどちからというと伝記。勿論、バベッジの設計した『階差エンジン』と『解析エンジン』の話が中心なんだけど、その仕組みが詳しく説明されているわけではなく、その背景と経緯が主たる話題になっているよ。
で、いきなり結論を言ってしまうと、バベッジの階差エンジンは完成しなかった。ただ、それは当初の設計通りのものが出来なかったということだけど、その機能の一部が動作するものが作られている。これは現存し、
一六〇年以上たったいまも、機械はその時と同じように完璧に動く。その姿を見る者は、「階差エンジンは完成しなかったが、成功した」という事実を改めて噛みしめるにちがいない。ということになっているよ。そして、完成しなかった要因を、
優れたバベッジ伝をあらわしたブルース・コリアーは、バベッジの並外れた完全主義こそ挫折の最大要因だと見ている。これを受けてリングドグレンも、バベッジが部品に課した精度要求が高すぎたのだと結論した。と分析しているよ。バベッジは数学者であり、技術者ではなかったということなんだろうね。
そして、バベッジのもう一つの側面である社会学(産業論)。本書では、
作家のポール・ジョンソンは快著『近代の誕生』の中で、バベッジを「産業社会の本質をつかみ、そのような社会が人類に提供する限りない可能性を予見した最初の人間だった」と評価しているが、その集大成とも呼ぶべき書物が『機械類と製造業の経済について』だった。この中でバベッジは技術の進歩が労働者と資本家の双方に利益を与えると論じている。と言っているよ。これって、現代のイノベーション?ITによる産業構造の変化って現代では密接に関係しているからね。コンピュータの父というより、イノベーションの父って言ったほうがいいんじゃないかなぁ〜。
バベッジのコンピュータ (ちくまプリマーブックス) | |
新戸 雅章 筑摩書房 1996-03 売り上げランキング : 597632 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
海山のあいだ/池内紀
『海山のあいだ (角川文庫ソフィア)』を読んだよ。頭にすっと入らない。
筆者は池内紀氏。原本は雑誌に連載されていたものを単行本化したもので、当時、講談社エッセイ賞を受賞しているとのこと。
アッシ的には山エッセイを想定して読み始めたんだけど、どちらかというと旅エッセイ。海辺の街も歩いているし、東京都心の神田から九段までも。
では、どんな山旅だったのか。
山を歩いていると、いろんなことを考える。そして、感じることも。その一つが川の音。
川音につつまれていると、耳はその音を聞かないのだ。遊びにあきて川原をはなれたとたん、遠くのざわめきのように川音がもどってきた。と筆者。うん、これはよく分かる。川原に立つと、川音以外の音が 聞こえるよね。そして、山道を歩いていると、川の音には敏感になるし。
そして、山に登るそのものの行為。
そもそも山登りに苦労や難儀がないとしたら、これほどツマラナイものはないだろう。と。そう、山に登る人たちは誰でも思うことだよね。これも不思議な感覚なんだけど。
エッセイにしては、す〜っと頭に入ってこなかったんだけど、どうしてだろ。単にアッシの体調の問題なのか、文体の問題なのか。池内氏の他の作品はどうなんだろ。ちょっと気になるなぁ。
海山のあいだ (角川文庫ソフィア) | |
池内 紀 角川書店 1997-06 売り上げランキング : 799378 Amazonで詳しく見る by G-Tools |