アメリカの壁/小松左京
これもKindleの積読本。多分、相当に安かったんだろうと思う。しかも、トランプ氏の就任以前だったはずだし。どうして、ここでいきなりトランプ?ということになるけれども、表題作の『アメリカの壁』はまさにトランプがやろうとしていることが現実化した話だから。そう、アメリカに壁ができて、外界からの移動はもちろん、情報も寸断された世界を描いたもの。
おっと、筆者の話が抜けていた。小松左京氏。自分的には『日本沈没』とか『復活の日』とかで懐かしの作家だけど、ここに来て、前述の通り、話題の人となっているわけ。そして、本書はその表題作『アメリカの壁』を含む短編集。1977年の作品だから、かれこれ50年も前に、現代のアメリカを予言したような作品が日本で誕生していたとは…。
で、作品の中で現れる当時のアメリカ評が面白い。
おれがアメリカを好きなのは──その機械的冷淡さだな。いくつかの条件を満たすボタンを押す。そしてスイッチを入れる。と──ガチャンと〝市民権〟が出てくる。いい国だと思う。機械的寛容さと言うか──アメリカは、コンピューターで管理するのに一番いい国で、だからこそ、世界で一番ヒューマニスティックなんだ。すでにコンピュータ推進国であったのは事実だろけれども、それをヒューマニスティックと表現するとは…。そして、極めつけのセリフ。
アメリカは、この〝孤立〟でうけた損害よりも利益の方が大きいはずだ……。たしかに広大なマーケットを失ったかも知れない。が、アメリカは、もう外の世界から泥沼のような〝援助〟をもとめられたり、国連でちっぽけな国々につるし上げられたり、日本や西ドイツからの〝追い上げ〟をうけたり、〝支配力〟や〝影響力〟のぐらつきに焦ったりしなくてもいいんだ……。まさにそれが現在のアメリカの選択なんだよね。1970年代にこんなことを考えた人間がいただろうか。スゴイ、スゴイ。
最後にあとがきから。
小説はあくまでフィクションであり、現実ではありません。けれど小松左京のこれら小説群には、ある特徴があります。それは、現実世界を切りとった上での思考実験であり、また多くの場合、現実世界への警鐘の意図が込められています。そう、表題作の他にも、そもそも人間ってなんだんだ?って思わせるものが多く、筆者の視点がユニークだな…という作品集でした~。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?/フィリップ・K・ディック
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだよ。人間=アンドロイド?
ハヤカワ文庫の棚に行くと必ずと言っていいほど、表紙を表に向けて並んでいる本書。いわゆる有名どころのSFという位置づけということで、一度は読んでみようかとKindle本で積ん読だったもの。そういえば、このところ積ん読中だったKindle本を手にすることが多い。コロナ禍の影響だね。
さて、本書はひと言で言ってしまうと人間とアンドロイドの対決のSF物語。主人公のリックは一応は人間のようなんだけど、途中から登場する人間もアンドロイドも区別が付かなくなってくる感じ。判定テストも今ひとつ信頼性が低い感じもするし。
で、区別の基準となるものが「感情移入」という概念。
「アンドロイドってやつは、いざとなると仲間にてんで薄情なんだな」とリック。ガーランドは吐きすてるようにいった。「そのとおり。われわれにはきみたち人間に備わったある特殊能力が欠けているらしいのさ。感情移入とやらいうものだそうだが」この概念を「特殊能力」と言って、アンドロイドとの差別化を図ろうとするところが人間っぽい気がするよね。
さらに、人間のアンドロイドに対する評価。
三人とも、どこかおかしい。どことははっきり指摘できないが、それを感じることができた。まるで、ある異様な悪性の抽象概念 が、彼らの思考過程に染みこんでいるようだった。ここで言う3人とはアンドロイドのこと。悪性の抽象概念ってなんだろ?でも、人間だって悪性の抽象概念を持つことがあるだろうに。
と、最後の訳者あとがきにも同じことが書かれていた。
従って、長編『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においても、そこに「人間」として登場する者も、「アンドロイド」として登場するものも、全て、「人間」であり、かつ「アンドロイド」でもありうる。だよね。そうだ、本書は人間の物語として解釈しよう。
考えるヒント2/小林秀雄
『考えるヒント2』を読んだよ。頭の悪さを痛感させられる読書。
精神の集中を持って取り組んでいかないと、途中で挫折しそうになる読書は、何度も体験してきているが、今回はまさにその極地。どうやって読み切ったかという記憶が、読了直後に忘却の彼方に飛んでいってしまうほど。
確かに難解なんだけれども、その難解さが微妙。ある一文でも、途中までは分かる分かるとスイスイ読んでいると、読点の先に真っ暗闇が現れるという感じ。
例えば、
近代科学は、よく検討された仮説の累積により、客体の合理的制限による分化によって進歩した。とか…。
でも、分かった箇所もまったく無かったわけでもなく、以下にいくつかを紹介。
世の中は、時をかけて、みんなと一緒に、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちている。実際、誰も肝腎な事は、世の中に生きてみて納得しているのだ。という人生訓のようなもの。
後半はニュートンとか、デカルトとか、理系の話題も出てくる中で、
デカルトは、数学を計算の技術と見る眼から、数学を「精神を陶冶する学問」と解する大きな精神の眼に飛び移る。ということも。そっか、「精神を陶冶する学問」か。いい言葉を知ったかも。考えること=陶冶なんだろうね。
さて、シリーズの次に進むかは甚だ微妙。Kindle本でも入手済みならば、別だけどね。
ファウンデーション/アイザック・アシモフ
アイザック・アシモフ著のSF小説。雑誌への連載が始まったのが1942年というから日本的には戦時中に書かれたもの。エネルギーとして原子力という言葉が出てくるが、当時の原子力はそれほど一般的ではなかったのだろうと思う。だからこそ、SF的には有効だったんだろうね。しかも、小説の中での原子力は古い技術的な扱いをされているし。
さて、冒頭の「理解不能」とは、高度な科学技術などが駆使されたSF的な意味合いではなく、とにかく日本語が分かりにくい。つまりは、訳の問題。訳者あとがきはスッキリ頭の中に入ってくるのだから、やっぱり本文の訳が自分には合わないのだろうね。訳本はこれで当たり外れがあるので、いい本はもったいないよね。
ということで、本書の感想は、特になし。シリーズもので続編があるけれども、まずは読まないと思う。あっ、違う訳者で読むっていう手もあるか…。
最後に、訳者あとがきから。
このシリーズの全体像はもっともっと気宇壮大で、数万年さきの未来史を構築しようというものだが、このエピソードだけ読むと、アシモフは現在の日本を見て書いたのではないかという錯覚さえ起こしかねない。これを読んで、この小説は「あぁ、そういうことだったのか。」と分かった次第。いや、やっぱり「気宇壮大」過ぎて分からない…。
陰陽師 付喪神ノ巻/夢枕獏
『陰陽師 付喪神ノ巻』を読んだよ。鬼にもヒトの心アリ。
陰陽師シリーズの3巻目。率直に言ってしまうと、面白いんだか、面白くないんだか分からない…。でも、3巻まで読んでしまうと、まぁ次も読んでみようかという気になるのが、摩訶不思議。ということで、4巻目もKindle本で入手済み。
で、今回は2つのキーワードに着目してみる。
1つ目は「鬼」。この物語では鬼の存在が欠かせないから。では、その鬼とは何なのか。
「鬼が人の心に棲むからこそ、人は歌を詠み、琵琶も弾き、笛も吹く。鬼がいなくなったら、およそ人の世は味けないものになってしまうだろうな。それにだ──」と晴明。鬼との共存…。いや、現代でも鬼のような恐れの存在があるからこそ、歌を歌ったり、楽器を弾くのかもしれないね。
もう一つは「呪」。
「おまえが、あの桜の花びらが落つるのを見て、美しいと想ったり、心を動かされたりしたら、それはおまえの心の中に、美という呪が生じたということなのだ」と晴明。「美という呪」という概念が論理的には理解し難いけど、感覚的には分かる。結局は鬼と同じなのかもしれないね。
さらに晴明は、
「人が、それを見、それを石と名づけて──つまり、石という呪をかけて初めて石というものがこの宇宙の中に現われるのだ」とも。いや、これは無理矢理感有り。いつものように、博雅を煙に巻く手法なのかもしれないけど。
最後にその博雅。
「晴明、人の世に関わるのもほどほどにせい。我等が人の世に関わるは、 所詮座興よ。どうだ、晴明、ぬしもそうであろう」と珍しく晴明に釘を刺す。うん、やっぱりこの小説の面白さは、この二人の掛け合いにあるのかもしれないね。
こんな日本でよかったね/内田樹
『こんな日本でよかったね』を読んだよ。なるべくしてなった。
いつものウチダ先生のブログを編集してまとめたもの。副題は「構造主義的日本論」だけど、構造主義はに拘った感じはせず、どちからというと「日本論」に主題があるのかな…。
とはいえ、その日本を語る手法が構造主義。だから、冒頭では、
つまり、 人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、 人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である、というのが本書の主な主張であります。と構造主義における本書の主張を語る。うむ、人間は構造に律せられているということか…。でも、やっぱりその「構造」とは何か?を聞きたいんだけど、ここではひとまず置いておく。
では、構造主義的にこの日本をウチダ先生が語るとどうなるのか。
まずは、国語教育。
そのような言葉に実際に触れて、実際に身体的に震撼される経験を味わう以外に言語の運用に長じる王道はない。言葉によって足元から揺り動かされる経験に比べれば、作者の意図なんかどうだってよい。そういえば、言葉によって身体的に震撼させられたことなどあっただろうか…。これもその国語教育の結果か。
だから、学校の先生がすることは畢竟すればひとつだけでよい。 それは「心身がアクティヴであることは、気持ちがいい」ということを自分自身を素材にして子どもたちに伝えることである。これはよく分かる。分かることが快感でないと行動を起こさないのが人間だから。頭ではなく身体で感じないとね。
最後はいくつかの社会問題。
少子化は日本政府の三〇年にわたる国策の成果である。そのことをまず認めるべきであろう。とか、
男女雇用機会の均等は女子労働者への雇用機会の拡大であると同時に、誰からも文句がつかない「政治的に正しい」コストカットだったのである。とか。結局はなるようにしてなったということ。でも、こんな日本でよかったのか…。
雁の寺/水上勉
『雁の寺』を読んだよ。慈念の行方は?
本書は水上勉氏の1961年第45回直木賞受賞作品。水上氏の作品は映画にはまっていた10代の頃にいくつか読んだ記憶があるんだけど、本書はなぜか対象外。他の作品に比べて地味な印象だったからかな。
さて、この物語の主人公は慈念という少年僧。いや、第一部では単に寺の小僧だった。そして、その慈念の出征の秘密。母親は誰なのか、父親は誰なのか。そんな思いが常につきまといながらも、寺の雑事を淡々とこなしていく。
それでも、まだ少年と言える年齢の慈念は、
わしは、そのお母はんに会いたい思います、お父はんが誰であるか知りたい思います。これ迷いどすやろか。わしはやっぱりええ 坊さんになれまへん。という思いを口にする。人間である限り、それは必然のこと。そんな中である事件が起こり、後半はその事件を背負って生きていく慈念。
でも、後半には、
「和尚 さん、わしには底倉におかんおります。わいを育ててくれたお 母んがおります」と、自分に言い含めるような言葉を発する。自分的には「それでいいのか慈念はん」という思いが残る。慈念の行方は誰も知らない…。