アンドロイドは電気羊の夢を見るか?/フィリップ・K・ディック

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだよ。人間=アンドロイド?

ハヤカワ文庫の棚に行くと必ずと言っていいほど、表紙を表に向けて並んでいる本書。いわゆる有名どころのSFという位置づけということで、一度は読んでみようかとKindle本で積ん読だったもの。そういえば、このところ積ん読中だったKindle本を手にすることが多い。コロナ禍の影響だね。

さて、本書はひと言で言ってしまうと人間とアンドロイドの対決のSF物語。主人公のリックは一応は人間のようなんだけど、途中から登場する人間もアンドロイドも区別が付かなくなってくる感じ。判定テストも今ひとつ信頼性が低い感じもするし。

で、区別の基準となるものが「感情移入」という概念。

「アンドロイドってやつは、いざとなると仲間にてんで薄情なんだな」とリック。ガーランドは吐きすてるようにいった。「そのとおり。われわれにはきみたち人間に備わったある特殊能力が欠けているらしいのさ。感情移入とやらいうものだそうだが」
この概念を「特殊能力」と言って、アンドロイドとの差別化を図ろうとするところが人間っぽい気がするよね。

さらに、人間のアンドロイドに対する評価。

三人とも、どこかおかしい。どことははっきり指摘できないが、それを感じることができた。まるで、ある異様な悪性の抽象概念 が、彼らの思考過程に染みこんでいるようだった。
ここで言う3人とはアンドロイドのこと。悪性の抽象概念ってなんだろ?でも、人間だって悪性の抽象概念を持つことがあるだろうに。

と、最後の訳者あとがきにも同じことが書かれていた。

従って、長編『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においても、そこに「人間」として登場する者も、「アンドロイド」として登場するものも、全て、「人間」であり、かつ「アンドロイド」でもありうる。
だよね。そうだ、本書は人間の物語として解釈しよう。