うるさい日本の私/中島義道

うるさい日本の私 (新潮文庫)』を読んだよ。考えてみれば不思議なことばかりの我が日本。

中島義道氏の著作にはいつも感心させられるばかりだけど、今回はスゴイ。まさに戦う哲学者を地でいく感じの本書。テーマは「音漬け社会」からの脱却。日本中のあちこちで発せられる公共場所でのスピーカーからの放送は、ウルサイばかりでなく、誰も聞いてはいないという事実を指摘し、それを糾弾する筆者の話。

例えばと言えば、キリがないんだけど、エスカレータにお乗りの際は…とか、駅ホームでの黄色い線の内側で…とか、防災無線からのお家に帰りましょう…とか、選挙カーからのがなり立て…とか。そう、すっかり暗記してしまうほど、我々の頭にインプットされている放送の数々。誰でも知っている注意事項を永遠に垂れ流すわけ。これに如何なる意味があるというのか。つまりは、

この国では「実効を直接期待しない」言葉がいたるところでカラ回りしており、みな「口が酸っぱくなるほど」言われても、なんの被害者意識もない。紋切型の言葉が機械的に放出されつづけ、それがいかなる効果をもつか、誰も真剣に考えないのだ。
ということ。

これらの邪悪な放送の数々に対し、直接闘争を挑む筆者。ある時は駅事務所に怒鳴り込み、ある時は企業の広報室に電話をかけ、ある時は役所に手紙を出す。それの繰り返し。でも、

おおかたの読者がもう私の「闘争記」にはうんざりしていることは承知している。だが、「読む」ことより「書く」ことのほうがくたびれ、「戦う」ことはもっとくたびれ、その実情を克明に告げるために書いているのだから、読者が少々くたびれても仕方ない。
と読者にも容赦無い。

では、「音漬け社会」から脱する方法は?というと、もうこれは日本文化の根本を覆すもの。つまりは、「察する」文化から「語る」文化への転換。

われわれが「語る」ことを取り戻すには、あえて他人を「察する」ことをやめなければならない。「察する」ことに鈍感にならなければならない。そして、その分だけ「語る」ことに鋭敏に勤勉にならなければならない。
と。そう、語らずに済ませる社会って、ある意味で稚拙な社会なのかもね。ウィーンで2年間過ごした筆者ならではの気づきなんだろうね。それにしても、この「我が闘争」記。それぞれの事例が、読み応えのあるものでした〜。
うるさい日本の私 (新潮文庫)
うるさい日本の私 (新潮文庫)中島 義道

新潮社 1999-11
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