日本社会で生きるということ

『日本社会で生きるということ』を読んだよ。阿部謹也シリーズ第6弾。

「世間」をテーマとした著者の6つの講演をまとめたものだよ。だから、話口調で書かれているので、非常に理解しやすいよ。例えば、以前の著作でも紹介されていたアイスランドのサガの紹介が今回があるけど、この本でようやくサガを紹介した意味が分かったような気がしたよ。

そんな中で、今回は日本には個人が無いということを示した例を本文中より2件ほど紹介。なるほどと思わせる印象的な事例だよ。

明治までは日本には自画像がというものがなかった。ヨーロッパでは自画像の歴史がある。日本では肖像画はあるけど、自画像ではない。その説明は以下の引用から。

これは、自分を個人を「世間」から切り離して見るということがないからです。あるいは自分を語ることがないからです。
夫婦茶碗の例も面白い。ドイツ人の家にお土産として夫婦茶碗を持っていった時、奥さんが大きい方を取って、「これが私の」と言ったという。もう一度、その説明を引用。
個人として妻や夫が位置しているのではなくて、夫婦という単位で暮らしている。さらにまた、そこにはある種の価値の上下まである。そういう意味ではヨーロッパ的な教育を受けながら日本人とはそれを建前としてしか受け止めてこなかった。
日本人が使う建前と本音の意味が、ここで鮮明になったような気がしたよ。
日本社会で生きるということ
日本社会で生きるということ阿部 謹也

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