「世間」の現象学

『「世間」の現象学』を読んだよ。阿部先生の本の解説書?

阿部謹也先生の探求した「世間」を現象学という立場で考えた本…と言えば、聞こえはいいけど、阿部先生の本をたっぷり読んでいるアッシ的には、まさに冒頭の「阿部世間学の解説書」と言えなくもない。阿部先生の本からの引用もたっぷりあるし。
ただ、解説書だけあって、事例が豊富。現代の事件を題材にしているから、「世間」というもののイメージが掴みやすいよ。

まずは現象学について。現象学そのものはよく理解できなかったけど、フッサールのいう<生活世界>という言葉がキーワード。<客観世界>との対比としての<生活世界>。学問は、まさに真理を追求するという意味で<客観世界>なんだけど、学問をするヒトは<生活世界>で生きている。なのに、まるで<生活世界>など無いように振舞う。これはいかんのではないかとフッサール。阿部先生も本書の筆者も同意見。ここで、<生活世界>とは「世間」なのだと展開していく。

じゃ、改めて「世間」とは何か?ひとつは贈与・互酬の関係。お歳暮・お中元の習慣が壮大な「慣性の法則」のように続いているという事実。

「世間」の贈与・互酬という関係は、同時に「相互扶助共生感情」つまり「助け合いの精神」が宿る関係でもある。ただしそれは「無償」の助け合いではなく、いわば「有償」の助け合いである。
日本で臓器移植が一般化しない理由がここにあるとか。借金を返すために強盗に入るなど、欧米では少ないらしいよ。義理堅し、日本人。借金など踏み倒せばいいと筆者。

身分などがきちんと決まっているのも世間。そして、個人が存在しないこと。友人たちと食事に行っても、自己主張しない。フルコースが食べたくても、周りがラーメンと言えば、「僕もラーメン」となる。まさに空気(世間)が意思決定するのだ。そうそう、KY(空気読めない)などは、まさに世間の表れだよね。

で、ポイントは「社会」と「世間」は違うということ。「社会」は変えられるけど、「世間」は変えられない。これはよく考えれば、恐ろしいこと。日本では「社会」より「世間」が優先されるから。なんというがんじがらめなのか…。

「近代化」により、「世間」は消滅すると考えられていたらしいけど、そうではなく、静かに跋扈していたが、1990年代に入ってからは、膨化・肥大化してきたと筆者。それが、お受験殺人や隣人訴訟といった事件の背景となる。

あぁ、オソロシや「世間」。
と、言いながらもアッシも世間の一員なんだ。それを忘れて世間を語るべからず…といったところが、本書のまとめかな。

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