身もフタもない日本文学史/清水義範

『身もフタもない日本文学史』を読んだよ。文学を知ることは楽しいよなぁ〜。

久しぶりに清水センセー。最近の著作は文学モノか、世界の地理歴史モノが多いけど、今回も日本文学。文学論というよりも、清水センセーなりの日本文学史。歴史だから、何故今この日本人であるのかに通じるものがあるわけで、文学が日本人の精神に深く入り込んでいるのが、よ〜く分かるよ。

そんなわけで、まずは『源氏物語』。この『源氏物語』を通読している日本人はそれほどいないけれども、文化の土台にある教養としての古典であると清水センセー。欧米の人々には聖書とかギリシア神話があるように、日本人の民族の共通知識として『源氏物語』があるとも。
そこで清水センセーの珍説。
源氏物語』が敬語表現で語られていることに着目し、これが『源氏物語』の気品や典雅さを印象づけていると。さらには、日本人が大きな影響を精神に受けているともいう。

私が思うのは、<中略>なんとなくの民族の誇りのようなことである。私たちはこういう尊い社会性もある国にいる、という立脚点の確認というか。
ちょっと前に流行った「品格」という言葉がすぐにイメージできるのはまさにそういうことなんだよね。

さらに『源氏物語』のすごさ。それは数々の短歌にあると清水センセー。多くの登場人物がその人なりの短歌をやりとりする。それを全部ひとりで作るわけ。うん、超人的才能かも。
ここでも、珍説を披露。短歌のやりとりはメールであると。なんとなく分かる気が。ちょっとした文章で気持ちを伝えあうといった感じがまさに機能的に同じだよね。

続いては、随筆。厳密にいうと随筆とエッセイは異なるものだけど、現代においてはそれほど区別はつけないということのよう。
で、登場するのは、清少納言の『枕草子』と吉田兼好の『徒然草』。どちらも日本のエッセイの原型。

だから今日においても、人はエッセイを書かなければならないとなると、兼好のように書こうと思ってしまうのである。
そう、つい世の中に対するぼやきとか文句をいうのがエッセイという感覚があるよね。でも、この感覚は男性の場合。なんと、伝統の力のあまりの大きさに驚くのであるが、日本の女性が書くエッセイのお手本は清少納言の『枕草子』なのである。つまり、何が書いてあろうが、そこで言っていることをまとめてみれば、私ってセンスがいいの、という自慢なのだ。う〜む、こうまでこの二つの古典が日本人の精神に染み着いていたとは…。

この後は、『平家物語』、『太平記』と続き、これは滅びの美学とか負けたもん勝ちであるとか、『奥の細道』や『土佐日記』などの紀行文学は田舎の悪口であるとか、そう『坊ちゃん』もひとつの紀行文学であると考えれば、松山の田舎ぶりを罵っているし。

字数が尽きたので、ここまでにするけれども、日本文学とはちょっとヘンな世界のような気がしてきた。ただ、これが日本人の精神というか文化であると思うと、日本人そのものがちょっとひねくれているのではないかと思えてくる。不思議だよなぁ、ニッポン。

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