活字博物誌/椎名誠
『活字博物誌 (岩波新書 新赤版 (586))』を読んだよ。このヨタ話が止められない。
いきなりだけど、本書のあとがきから引用。
なにやらたいそうな題名になってしまったが、日頃たいした脈略もなしに、そして発作的に読み散らかしているいろんな本の読後連想式妄想型ヨタ話である。と筆者のシーナ氏。岩波新書の前作の『活字のサーカス』も同じテーマでのヨタ話だったっけ。でも、アッシ的には「読後連想式妄想型」に意味があるわけであって、「ヨタ話」はおまけみたいなもの。いろいろな本があって、その指南書と考えば、ヨタ話であろうとなかろうと関係ないし。いや、ヨタ話だからスイスイ読めるというメリットもあるわけで。
ということで、幾つかのヨタ話を紹介。
まずは「しゃがんで何をする」。ここでは排便後に尻を拭く行為について考える。人間が尻を拭くのに紙を使うようになったのはこの一世紀になってからのこと。これに対し、
このことはもしかするととてつもなく地球にやさしくないことだったのかもしれない。と気がつくシーナ氏。このままでいいのか人間は?って考えてしまうわけ。うん、これはいい視点だよなぁ〜。
そして「苛々する本」。電車の中での苛々する騒音。ひとつ目は車内アナウンス。ここでは、中島義道氏の『うるさい日本の私』が登場するよ。アッシ的にはこれが登場して嬉しい。で、シーナ氏は車内アナウンスに対する苛々は当然として、もう一つ、
もうひとつは、どうしてまわりの人々は苛々していないのか、ということに対する苛々――である。という観点を提示する。そして、それが日本人の無表情さに繋がっていくわけ。
しかし日本人のそれは、このところ急速にすすんでいる複雑で煩わしい相互干渉から逃れようとする、たとえていえば擬態進化の一過程と考えることもできないか。表情を凍結して集団の中にまぎれこむことによってひとつの生存の道をさぐる昆虫的な方便――とも感じるのだ。と。「昆虫的な方便」っていいよね。でも、ついに日本人は昆虫的になってしまったか…。これもシーナ的な発想だよなぁ〜。
いや、ヨタ話と言っておきながらも、ヨタ話であらず。発想の転換のヒントになった一冊でした〜。
活字博物誌 (岩波新書 新赤版 (586)) | |
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