日本辺境論/内田樹
『日本辺境論 (新潮新書)』を読んだよ。日本人ってそんなに特殊な人種なのかなぁ〜。
また、ウチダ先生。かなりの売れ行きのようで、本屋に行くといまだに平台に山積状態のことが多いよ。日本人って日本人論が好きだからなぁ〜。
では、なぜ日本人は日本人論が好きなのか?それが第1章にいきなり書かれているよ。
私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。ということ。原点がなく、エンドレスの問いとしてしか存在しないのだと。「きょろきょろ」といつまでも周りを眺めつつ、決定版を決めることなく、その場の状況に合わせて変化させていく。だから、日本人論だって、結論があるわけじゃない。永遠の課題なんだ…。
で、本論に戻って、日本の辺境性。本家本元は中華というくらいだから、中国。世界の中心の中華から見れば、日本は東夷。まさに辺境の土地。でも、そんな立ち位置を意識的にかそうでないかは分からないけど、上手に利用することで生きてきた。わざと知らぬ振り、おバカな振りをしたりして。それをウチダ先生は、
華夷秩序における「東夷」というポジションを受け入れたことでかえって列島住民は政治的・文化的なフリーハンドを獲得したというふうに考えられないか。<中略>日本列島は「王花の光」が届かない辺境であるがゆえに、逆にローカルな事情に合わせて制度文物を加工し、工夫することが許された(かどうかは知りませんけれども、自らには許しました)。といい、辺境の手柄の一つだと捉えているよ。
そして、後発者ゆえの模倣のうまさ。その反面として、先行者の立場になると思考停止に陥るとも。模倣は日露戦争以降の日本の行動に表出する。つまり、「ロシアが日露戦争に勝ち満韓を支配した場合にしそうなこと」をそのまま下地として模倣したのだと。だから、ウチダ先生的には、軍部の暴走ではなく、軍部は下絵をトレースしただけなのだと考える。
つまりは日本に世界標準を作るなど、所詮無理なこと。ウチダ先生曰く、
私は、こうなったらとことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです。となるよ。
後半は日本人の「学び」について。
柔道、剣道、茶道、華道などの「道」という概念が、辺境性と深い繋がりがあるという。
「道」はまことにすぐれたプログラミングではあるのです。けれども、それは(誰も見たことのない)「目的地」を絶対化するあまり、「日暮れて道遠し」という述懐に託されるようなおのれの未熟、未完成を正当化してもいる。「道」のイメージって、いつまでも続く感じ。ゴールの無い道だから、いつまでも道半ばだという言い訳が通用する訳。先送り可能な論理。日本人的て言ってしまえば、それまでだけど…。
最後は辺境人と日本語について。
文字の存在しなかった日本は、中国から漢字を輸入し、それが「正統」の文字の地位に着く。もともとあった音声言語は「仮名」という「暫定」の座に置かれた。
外来のものが正統の地位を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。それは同時に男性語と女性語というしかたでジェンダー化されている。これが日本語の辺境語的構造です。このことに、明治維新以降の日本の変わり身の早さを見るよね。外来のものの取り扱い方は手慣れたものっていうことなんだよね。
アッシも日本人論が好き。って言うか、この日本が好きなんだよね。好きなものは知りたくなるから。そして、いつまでもダラダラと結論を先送りするのも嫌いじゃないなぁ〜。
日本辺境論 (新潮新書) | |
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