遠野物語へようこそ/三浦佑之,赤坂憲雄

遠野物語へようこそ (ちくまプリマー新書)』を読んだよ。民俗学の世界にようこそ。

遠野物語』。筆者の柳田国男と共に、子供の頃から名前は聞いていたけど、その内容については、ほとんど知らず。遠野という地名も多分東北方面だろうと予測をつけるだけで、実際の地理的位置も知らず。
そんな訳で、なんとなく気になり続けていた『遠野物語』だったけど、ついにちくまプリマー新書から本書が発刊されて、すぐに読んでみようとなったわけ。

本書の全体的な構成としては、「はじめに」で『遠野物語』の成り立ちと作者の柳田国男についての解説。それ以降は、『遠野物語』に出てくる話をピックアップして解説するという感じ。各章の冒頭には原文が載っていて、多少言葉が古いから読みにくい感じはするけれども、解読不能ではないよ。よく読んでみると素朴で味わいのある日本語って感じもするし。

明治時代、農商務省の官僚だった柳田国男明治41年ごろから民俗学へ傾倒していく。そのきっかけとなったのが、九州への視察。そこでは、それまで机上で学んできた農政学の知識や、官僚として策定する農業政策だけでは掌握しきれないさまざまな問題を見出したのだと。

たとえば、天草での習俗を見聞し、それが「今日の如き極めて新しい文明社会を風俗として併存している状態」は、単純な法則だけで社会の行動を考えようとする「書生の想像には及ばない所」だと述べています。
そう、脳で考えるのは脳の範囲でしか考えが及ばずってこと。まさに「バカの壁」がここにも。

さて、『遠野物語』に登場する話には色々なものがあるけれども、例えば「神隠し」。

たとえ、ただひとりのまな娘を失った淋しさは忍びがたくとも、同時に、それによって「家の貴さ、血の清さ」を証明できたばかりか、「眷属郷党(地縁、血縁の深い一族)の信仰」と統一することができたのではないか、それが神隠しではなかったのか、と。
本書の筆者は、それを「家や村という共同体のアイデンティティを維持・更新してゆくための、たとえば語りの仕掛けであったのかもしれません。」と言っているよ。うん、家族の失踪を世間に晒さないために物語を作ったとすれば、それはひとつの手法だよね。

さらに「棄老伝説」も。いわゆる「姥捨山」。ただ、『遠野物語』の姥捨ては、普通に語られる姥捨てとはちょっと違うよ。姥捨山は里の近くにあり、老人たちは昼間は里に降りてきて、畑仕事にせいを出したりする、と。ちょっと、イメージが違うよね。でも、これが現実の姥捨てなのかも。

遠野物語』から百年の歳月を経て、わたしたちはみな、老いや死から真空パックのように隔離されて、生きることの意味を忘却しているのかもしれません。老いも死も日常から遠ざけられ、リアルに感じることができずにいます。死者たちは、魂は、行き場もなく彷徨しています。この時代が、『遠野物語』の時代よりも幸福である、とためらわず断言できる者が、いったい、どれだけいることでしょうか。
そう、老いも死も現実なのに。それをただ覆い隠すだけの現代。なぜ、それを真正面から見つめようとしないのか…。ただ、アッシ自身だって、中高年になって、現実として目の当たりにせざるを得ない歳だから、こんな文章に反応するようになったのかもしれないね。
遠野物語へようこそ (ちくまプリマー新書)
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