中学生からの哲学「超」入門/竹田青嗣

『中学生からの哲学「超」入門』を読んだよ。中学生にどこまで理解できるか…。

最近のちくまプリマー新書は難しいものが多い。本書のレベルも高め。大人なら、まぁ普通に読めるけど、中学生には…。高校生以上なら、なんとかなるかも。

第1章は筆者の若い頃を振り返り、自分とは何者かを考える。ここで登場する二枚目の世界像という考え方が面白いよ。一枚目の世界像とは、家族、友人、学校などから自然に受け取ったはじめの「世界像」。ほぼ高校までは、これをまわりの人間と共有している。大学生になると、言葉の力がたまってきて、本とか耳学問で、突然新しい世界像が開かれることがある。これが二枚目の世界像。一種の世界発見的な魅力で立ち上がる。
そう、アッシにもそんな思いを持った経験があるかも。世界の真理を掴んだような不思議な感覚。とんだ勘違いなんだけど。
で、実は三枚目の世界像がある。

ほんとうは、この二枚目の世界像がさらに相対化されて三枚目の世界像を得たとき、われわれは、世界経験というものの全体像をはじめてつかむのだけれど、そのためには、この二枚目の世界像がなんらかの仕方で挫折する必要があるんです。
と。そして、いちど世界がとことん壊れないと世界が深まらないとも言っているよ。大丈夫、いちど壊れてても世界は立ち戻る。
アッシは世界像のエッセンスを少しでも掴んでいるかなぁ〜。自分でもよく分からないのだけれども…。

第2章では「世界はどうなっているか」という表題で、宗教、哲学、科学について考える。筆者は宗教を「物語」、哲学を「原理」、「概念」として考えているよ。物語たる宗教は、それぞれがバラバラ。世界は誰が作ったと問えば、ある物語は神であり、ある物語は最初から存在したという。共同体の枠組みを作ることは不可能。哲学では共同体の限界を超えて、「普遍性」をもつ。言い換えると、宗教は「真理を求めるゲーム」であり、哲学は「普遍性を求めるゲーム」であると。もちろん、どちらがいい悪いの話ではないよね。
そこで、キーワード「自由の相互承認」が登場するよ。第3章「なぜルールがあるのか」から引用。

近代社会のいちばん中心の原則は、だれもが自由で平等であることを誰かが(神や、政府や、その他が)認めている、というのではなく、社会の成員がそれを「相互認識」する意志をもつ、という仕組みにあるということです。哲学ではこれを「自由の相互承認」のと言います。
これが社会の本質だよね。宗教とも違うし。社会が成立したのが近代であるという阿部謹也先生の話とも繋がるね。

自己とはルールの束であるとも。「善悪」「美醜」についての内的スタンダード、つまり「自己ルール」とは自然に身についてしまうもの。だから、容易に変更はできない。それが自我の本質。それでも高校生くらいになると、友だちと自分の「自己ルール」を交換しあい。確かめあうことでそれを調整するようになるのだと。この「自己ルール」を自分が掛けている眼鏡だという比喩が分かりやすい。色が付いていたり、歪んでいたり。批評しあうことで、それに気が付くことがあるのだと。
そう、色眼鏡を掛けていることは自分には分からないんだよね。あ〜、人間ってなんてバカなんだろ。

最後は、本書の副題で締めくくる。
自由が達成されてしまった現代は、自由とはハッキリしないものになっているよね。そこで登場するのが「一般欲望」というキーワード。これは「すべてのひとがいちばん望むもの」と定義。

「自己ルール」を再認識し、自分の中の「一般欲望」を再吟味する。これは現代社会において、若者がもっている生きる上での最大の課題です。そして、そのことによって、はじめてわれわれは、「自分の生への意志をもつこと」が可能になる。
自己ルールや自分の欲望を考え直すことが、自分の意志をもつことになるということ。そう、これは若者だけではなくて、いい年のおっさんになったアッシも考えなくてはいけないなぁ〜。
中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)
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