この国のかたち〈2(1988~1989)〉

『この国のかたち〈2(1988~1989)〉』を読んだよ。ちょっとした薀蓄も多いけど、それ以上の考え方。

『この国のかたち〈1(1986~1987)〉』より半年振りにその続編。もともとは雑誌「文藝春秋」の巻頭に掲載されていたものだけど、ひとつひとつがよ〜く考えられていて手の込んだもの。だから、20年以上経った今でも十分楽しめるよ。

まずは「土佐の場合」。
土佐藩の風土がおもしろい。まだまだ江戸期がつづいていたような明治3年に、“人間は平等である”と宣言した。『諭告』というもので、“四民平均論”と呼ばれた。これは同時代一般からみれば過激というほかはないと筆者。
さて、どうしてこのような過激な諭告が土佐から出たのか。それには戦国末期の長曾我部元親まで遡る。領民皆兵制という制度が平等と言う思わぬ思想の根を土佐の風土におろさせることになったのだと。長曾我部のあとは山内家になるのだけれども、そこからまた紆余曲折の後、明治3年の『諭告』となるわけ。筆者は、

以上のべた“かたち”からみて当然だったといっていい。
と。歴史の面白さがここにも。

江戸時代、旗本八万騎の話も面白い。
幕府(徳川家)には、文武とも諸藩のような直参学校が存在せず、がみがみと子弟教育をするという思想がなく、いっさい教育というものを強いず、気味わるいほどに自由で、すべて家々にまかせきりだったそうな。このような直参の中から幕府官僚が採用されるわけで…。筆者曰く、

もっとも、通称“八万騎”もいるから、ぐうたらばかりではなく、そこそこの者か、ときに優秀な者が出た。それから、幕府の根幹を維持していたのだが、均しての人材の質は、いまでいうと、大都市周辺の衛星都市の市役所ぐらいのものだったのではないか。
と、口が悪い。

現代に最も繋がる話としては、郵政制度の話。筆者がこれを書いた当時、平成になって郵政制度の大改革が行われるとは思ってもいなかっただろうけれども、その原点がここに書かれていたよ。

明治政府は、維新後わずか4年で、手品のようにあざやかに制度を展開した。
手品のたねは、全国の村の名主(庄屋)のしかるべき者に特定郵便局(当時は、郵便取扱所)をやらせたことによる。
そして、かれらの名誉心を刺激し、公務であることを説き、官吏に準ずるという礼遇をしたとも。公共精神が強かった層が犠牲を覚悟で参加したわけ。それが平成の世でこんな形で影響を残すこととは…。

過去の歴史があるから今がある。改めて思う1冊でした〜。

この国のかたち〈2(1988~1989)〉
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