学問のすすめ

学問のすすめ』を読んだよ。現代語訳だけど。

ご存知、福澤諭吉の『学問のすすめ』を齋藤先生が現代語訳したもの。すっきりしていて分かり易く読みやすい文章。齋藤先生に言わせると福澤の文章そのものがすっきりしているからということ。ユーモアを交えながらの文章もよいよ。

本書に通底する考え方は、「独立する」ということ。個人の独立も勿論だけど、国の独立も然り。鎖国が解かれ明治になった日本は独立国としながらも、外国を恐れ卑屈になっていたかも。そんな日本と日本人を教育するための本だったような。
例えば、こんな記述。

一国全体を整備し、充実させていくのは、国民と政府とが両立して、はじめて成功することである。われわれは国民としての責任を尽くし、政府は政府としての責任を尽くして、お互いに協力しあい、日本全体の独立を維持しなくてはならない。
人体が国だとすれば、政府は内側の生命力のようなもので、国民は外部の刺激のようなもの。それらのバランスで成り立っているのだとも言っているよ。

人間は社会的な動物であるという記述も面白い。一身の衣食住を得てこれに満足するだけなら、何の進歩もない。社会の為に働くことで文明が発展する。世の中の為にやっているのではないと思っていても、知らず知らずのうちに後世、子孫がその恩恵にあずかっていることも多々ある。

文明とは、世界中の過去の人々がいったいとなって、いまの世界中の人=われわれに譲り渡してくれた遺産なのであって、その大きく広いことは、土地や財産とは比べ物にならない。
と言う。そして、誰にその恩を感謝すればいいか…ということまで考えているよ。そう言われると、確かにそこまで考えたことはなかったなぁ〜。

学者が学校に対しても、手厳しい。
学者は内側への思考一辺倒で、外に向かってやるべきことを知らないと言い切る。真の学者は緻密な内側への思考と外に向かって学問活用を広げていくのだと。
学校は、そのレベルは学問で決まるのだと。

学校の名誉は、学問のレベルが高いのと、その教え方が上手いのと、教師や学生の人物が高くて議論の程度が低くないということで決まるのだ。
あ〜、どこかの誰かさんに聞かせたい…。

さて、最後に学問について。
なぜ学問をするのかということ。それは判断力を養うためだと。

物事を軽々しく信じてはいけないのならば、またこれを軽々しく疑うのもいけない。信じる、疑うということについては、取捨選択のための判断力が必要なのだ。学問とは、この判断力を確立するためにあるのではないだろうか。
疑うことから学問が始まるってことから話が始まった結果なんだけど。

現代の日本人の生き方の原点がこの本にあるような気がするんだけど。当然、明治の人たちには違和感のある考え方だったのかもしれない。それがアッシらの年代までは身に染み付いている。しかしながら、これからの日本人は変わってきているような。だからこそ、若い人たちに、この本を読んでもらいたいと思う。久しぶりのお勧め図書でした〜。

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