日本人の精神と資本主義の倫理
『日本人の精神と資本主義の倫理』を読んだよ。茂木さんはトレンディドラマがお嫌いとか…。
いつもの茂木先生と経営コンサルタントの波頭亮氏の対談集。テーマは「日本人の精神」と書いてあるけれども、「現代日本人の生き方」に近いような。
まずは二人のプロフェッショナル論から。波頭氏のプロフェッショナルの定義は「公益性」。使命感をもって、自分の知識や技術を使って仕事をするがプロフェショナルであると。これは、ヒポクラテス(プロフェッショナルの元祖と呼ばれていたとか)の時からの定義でもあるとも。この考え方が、日本人は寄付をしないという話に、さらに二人の結論として「大衆というバケモノ」が野に放たれたという議論に展開していく。それが、こういう表現になって現れてくるよ。
僕はそうした事象と金持ちが寄付をしないこととの間には共通項があるとみています。ノーブレス・オブリージュ、高貴なるがゆえの義務を知るためには、精神的な価値が理解できなければならない。ところが、サンダル突っかけているオバサンも、100億円稼いだ資産家も、その精神性において違いなどまるでないのが今の日本なのです。うわぁ〜、茂木さん、衝撃的なご発言…。
でも、この発言は大事かも。大衆の大衆性への迎合は、分かりやすさを優先するだけで、ハイカルチャーを生み出せない国を作ってしまうのだとも言っているよ。
続いて、日本人の個性について。日本人は総じて無個性であると。それは何事にも突き詰めて考えていないからだと。そして、個性のレベルが低過ぎて、まったく個性になっていないということ。
ここで登場するのが家康。秀吉は刀狩りをしたけれども、家康は心の刀狩りをしたと。
出る杭を打つ社会の仕組みを完成させ、突出した個性を徹底的に叩き潰すような国民性を作り上げてしまった。と、波頭氏。茂木さんは「ピア・プレッシャー」という言葉を使って、同じようなことを言っているよ。
学習についても。
合目的的でない方向への変化についても学習であると茂木さん。逆にいうと変化=学習なわけ。学習は価値依存的な概念ではないともいう。これがカッコイイと波頭氏。
経済至上主義についても警鐘を鳴らす二人。若い人にどんな仕事がしたいか?と聞くと「20代で年収1000万以上の仕事」と答えるという。これは多くの収入を得ること自体が目的化していると。仕事ってそういうものじゃないでしょうという二人にアッシも同感。
資本の論理、すなわち、より多くの利潤を追求するために、われわれは限界を超えて、必要以上の利便と消費を強制的に享受させられているのではないか。と、波頭氏の言葉。
こんな具合に面白い話が次から次へと出てくるよ。
で、最後の茂木さんの一言が傑作。
何だか燃えてきたなあ(笑)何となく分かるよね。話が盛り上がって、じゃぁ自分はこうしてみようと思った時のワクワク感がこの言葉に表れているような気がして、嬉しいね。
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